生物多様性について

2000年ごろに、進化論についていろいろ議論があった気がするがそのときに生物多様性が21世紀のテーマになりそうだなーと思って観察していた。それから20年が経過、現在では生物多様性(1)が、 社会学的な側面から議論されている。LGBTの議論もその一つだろう。

古い友人の滝田純子先生が良いことをおっしゃっていて、多様性について語りながらも固定した価値観に囚われてしまっている人が多いというような内容であった。滝田先生は働き方改革などについて各種委員を務めている日本における若手のリーダーの一人だからその発言には意味がある。(つまり一般には知識レベルが高いとされる 「識者」なる人々すら固定観念に囚われているという意味だ)

自分の考えとしては以下。
「まず全体像をイメージし、必要なところにピースを当てはめるような社会の作り方」を今までしてしまっていたと思うけれども、未来においては「多様なピースがある状態からどういう全体像を描くか」ーという風に考え方を進化させる必要があるのだと理解はできるが、これは量子コンピューターで解けるとされる最適化問題の一段上のレベルの複雑さを持つ。求められるリーダーシップが変化してきているかも知れない。

はたとここで考えが止まった。

そこで急にプロフェッショナル・仕事の流儀で井本先生(3)(注)が子どもたちに「なんでもいい」とおっしゃった言葉と、自分の身の回りでよく聞く「なりたいものがわからない」という子どもたちの声が思い出された。

井本先生は「あえて未来像をイメージしない」「ありのままで良い」と考えている。「何かにならなければならない」と考えているとすればそれはかわいそうで、夢中になれるものを見つけられると良い。

そうおっしゃっていた。自分には心地よい言葉だった。自分が「何者」という器を持っていないタイプに思えるからだ。どちらかというとパズルのピースとピースはぴたりとは合わないのでそれを埋めるシステムだとか、パズルが壊れたときの修理とか、そういう役割を担う、又はそういうシステムを考える人なんだろうなー自分は、と思って終わることにした。

ここでも滝田先生は良いことをおっしゃっていて、普段は距離感が適切であるが、団結すべきときに協力でき、互いに足りない部分は補い合える設計が大切だけれども、そのときに自分のピースの形を決めるのは自分:実はこれが難しいかも、というような内容であった。

社会として人を型にはめない、相互のゆるい/強固なつながりをアシストするようなシステム(これはICTのようなもので構わないと思うけど)を構成しつつ、個人としては自分の頭で考えられるような教育を模索する、というようなところなのだろうか。

プレイフル・ラーニング、モンテッソーリ教育、STEAM教育(2)


、若い人に一人暮らしを勧めたり、図書館や美術館、芸術、詩、旅、2つ以上の専門を持つこと、を勧めるのは、インターネットが発達した今だからこそ、自分の頭で考える経験、繋がりを模索する経験が貴重だからなのだろう。

そういう社会が実現すると、もはや社会主義とか資本主義というような言葉が意味をなさない、大きな変化のように思う。それが今世紀中に行われるのだろうか、あるいはその前に環境破壊で人間そのものがいなくなるのだろうか。

注:よくあるジェンダー論は、議論を見やすくするためもあろうが「男は~/女は~」と決めてしまい例外処理をしていない。その例外が非常に増えてきている現代ではカテゴライズすることに意味があるのか、それにとらわれない柔軟さが求められるということ。
注:むろんシステムの中の歯車でいることが心地よいという場合もあろうが、それは入れ子構造(自分にあったリーダーを探し、その中に存在すること)で実現が可能なので心配しなくても良いと思う。

参照:
2)中島さち子さんのSTEAM教育  https://coeteco.jp/articles/10522

3)プロフェッショナル 仕事の流儀▽答えは、子どもの中に~数学教師・井本陽久~ https://www4.nhk.or.jp/professional/x/2020-01-13/21/12505/1669571/